タイトルにインスパイアだけされて、別方向にグダッてみると。
意訳すると、
てめぇじゃあお前はこれ自分で作れんのかよ、俺はこれ作ったわけだけど、大変だったよ。かなりの時間費やして、考えもしたし、悩みもしたし、腱鞘炎にもなったよ。お前が自給自足できねえもんを俺が代わりに作ってやったんだからよ、その手間賃ぐらいよこせよ。野菜だったら、もしお前が野菜を自給自足してたら、八百屋や農家はお前が野菜買わねえことを受け入れるしかねえだろう。でも実際はお前は自給自足してないわけだから、八百屋で野菜買って、その分の代金払うわけだろうよ。だったらそれが野菜じゃなくても同じだろうが !!!!! それが食物であるかどうかとかエンタテインメント商材であるかどうかによる差なんかねえんだよ !!
ということになるだろうか。
つまりそれをさらに短縮すると、
いいから手間賃を払えっつってだよこのくそ野郎が。
と。
「手間賃」を払えるか払えないかは、その「手間」「苦労」の量を想像できるかできないかというところにあるだろう。それが想像できないことで、苦労を背負う側との間に軋轢が起こるのは、なにも創作者に限った話ではない。IT 技術者が“クライアントが、ここの表示をちょちょっと直すぐらい簡単でしょ ? 今すぐここでできるよね ? サービスで。なんてぬかすんですよ~あー腹立つ、殺してえ~”とよくはてブあたりで愚痴るのや、“いくら全自動洗濯機や食洗器があるからって、育児中の専業主婦の仕事はそれだけじゃないのよ !!!!”と激怒してたりするのと同じこと。
で、特に後者は、“私も育休とって家事育児を替わってみたら、いや驚きました。本当に朝から夜中まで眠る暇もない。妻は本当にスゴいなと初めて判りました。自然と、妻への労わりの気持ちが出てきましたね。”なーんつう、苦労を背負わせる側からの反省の弁がぽろっと出てきたり、なんてことがままある。これをヒントにすると、つまり、他人の苦労の量を想像する能力は、想像力などではなく、あくまで、その苦労の内実を、部分的にでも実地体験してみることからしか生まれ得ないんではないか、という考えに達するのだ。
ここで、だから誰しもが小説かいてみようと試みたり、マンガ描くのに挑んでみたりすればいいのだ、いやさ必修化すべきだ、などといってみるのもいいが、一方で俺が思うのは、小説やマンガといったエンタメ商材の製作工数の大変さへの駄賃の正当性を教えるために自給自足を試させていくうちに、自給自足に惹かれていく人も一定の割合で発生してくる。まあ多くは決してないだろう、一割未満ぐらいか ? でもその一割未満はもしかしたら以前は従順に金を払っていた人である可能性があるわけだ。彼らが、創作を自給自足で賄うことに目覚めていってしまうとしたら、それは即ち、クリエータ達の食い扶持の微少な減少につながる。大したことはなくても、減少は減少ですよ。または、自給自足までは至らなくても、やってみたうえでふーんこんなもんなのね、ま、楽じゃあないけど、べつに俺には絶対無理ってほどでもないな、と看破する人も出てくるはずだ。およそ創作者なんてのは、手間賃だけもらってればそれで十分、なんていえる人ではなくて、他者からの賞賛こそが欲しい、という厄介な性分である。そんな彼らにとって、周囲が自分と同じ労苦を実感することが、彼らの都合のいいようにばかり機能するとは少々思えない。
情報化社会の進展に伴って、創作者は、経済的報酬の面でも、精神的褒賞の面でも、どちらも少し目減りすることからは、まったく逃れ得ないのではないか。上記したとおり多くはないと思う。一割前後ぐらいじゃないかなと思う。でもここで俺が訴えたいのは、従来基準が維持されることはもうどうあっても望めないのだろう、それは覚悟せねばならないのではないかな、ということである。どこでも世界はフラット化の一途を辿っているのだ。
0 コメント:
コメントを投稿